エヴァンゲリオン
2009年08月07日
エヴァンゲリオン2.0のエクリチュール

PM8:05のレイトショーだったが、女性同士の入場が目立った。
カップルも結構いる。
もちろんオタク風の男もいっぱいいる。
始まると私語する人は一人もいない。私の食べているポップコーンの音すら気になるくらいに、みんな真剣に見ている。
映像の美しさの進化に圧倒されると同時に、今回は恋愛ものとしても物語の質はかなり高い。
アスカが思い切り明るく振る舞った後の悲劇。
レイがシンジがゴミ箱に捨てたSDATをコクピットに持ち込み特攻していった後の悲劇。
アスカとレイがシンジのために料理を振る舞おうと慣れない包丁で指を傷だらけにしている姿。
特にオートリバースのSDATをレイが持っているシーンで、恥ずかしながら泣いてしまった。
今日の日はさようなら♪また会う日まで♪で、ボロボロ泣く。
まわりの女性も同じく泣きそうになっている。泣いている人もいる。
今の時代の気分と妙にマッチする主人公たちの限界値での行いに、見るものみんな感情移入しきっている。
EVAを見ることは羊水回帰の快感でもあるので、その気持ちよさは男女関係なく充分に伝わってくる。
そして自分には被害なく、戦場でのギリギリの感覚を見ているだけて゜味わえる戦いシュミレーションとして魂が思い切り揺さぶられるのだ。
また、暴走願望が満たされる。
さらに今回は、複雑系の創発に近い演出がされており、度胆を抜かれるシーンが数多い。
ユイ-EVA-レイの羊水回帰・母性逆襲、近親相姦に近いシンジの愛情表現は、エクリチュールとしては、かなり完成度が高く、その指標はまさにレイで(零)で零度のエクリチュールとなっている。
綾波-軍艦、零-零戦、エヴァンゲリオンは失われた母性が暴走しているキャラでもあり、薄っぺらな戦後教育をすべて吹っ飛ばすくらいの力を持っている。綾波レイは零戦特攻隊のような清さを彷彿とさせる不思議なキャラだ。それに対しアスカ・ラングレーはドイツ 人とのクォーターでアメリカ人、重要なキャラだがエヴァンゲリオンの本筋のストーリーからいうと、やはりレイには負けてしまう(笑)
エヴァンゲリオンの魅力は、薄っぺらな戦後教育、戦後社会を吹っ飛ばす力を持っていて、しかも戦争賛美ではなく闘争本能そのものを呼び覚ましてくれる力を持っている。
現在の20歳すぎ世代は、戦後のウソを見抜いてしまっており、エヴァンゲリオンに思い切り感情移入できる感性を持っているとすれば、その支持の理由はとてもよくわかる。
シンジとアスカの不同化、シンジとレイの近親相姦的な死んだエロス。
よくも国産でこんなストーリーとキャラを作り上げたものだと思う。
エヴァンゲリオンQでは何がおこるのか?
劇場版、新劇場版により、果てしなく進化し続けるエヴァンゲリオン。
探索していくうちに、思いっきりはまってしまった(暴走・笑)
2009年08月03日
エヴァンゲリオンという超メタファー

まさに流行っている頃は素通りしていたので、再放送のTV版と25話と26話の劇場版をTSUTAYAで借りてみると、特に26話の劇場版には衝撃を受けて、「オレ、よくもこんな凄いモノを知らずに、いままで生きてきたな…」と、シンジなみに沈没してしまった(笑)
現在でも新劇場版は展開中で、この作品はリミックスをかけ、さらにリミックスをかけても初期コンセプトを表現しきれないほど、大きすぎる核をはじめから持ちすぎている。
特に、劇場版の「Air まごころを君に」の冒頭の性的描写やラストの拒絶のセリフは通常考えられない展開で、見ている者へのメッセージが色濃く存在している。
通常の論争のあたりは、もう過去のものになっているので、何故、20歳すぎの層がEVAにこだわっているのか、のあたりに焦点をあててみたいと思う。
20歳すぎの層がエヴァンゲリオンを見ていたのは、小学生の頃かと思う。ストーリーも充分に追える年代だが、こういう年代は印象で見ている場合も多い。
その世代が、一度は終わっている世界の中で、自由のきかない家族関係、自由のきかない身体性、自由のきかない人間関係の中を延々と内面性を主旋律に進んでいくアニメというのは、おそらく完全なる固有性があり、他と比較できないほど強い印象を持ったのではないかと思う。
また、それはこのピュアな世代にとっては、アニメだけの世界ではなく、現実においても(1度は終わっている世界の中で)自由のきかない家族関係、自由のきかない身体性、自由のきかない人間関係に近いものがあり、エヴァンゲリオンが醸し出している憂鬱な感覚は男女の隔てなく共感するものではないかと思う。
こういうのは、マジンガーZも、ウルトラマンシリーズもヤマトも、あらゆるアニメで免疫ができている私のようなものではなく、何もなくEVAが最初の体験だとすると、もの凄く影響を受けるのではないかと思う。
また、このエヴァンゲリオンの世界観というのは、今の時代になって、ひしひしと感じるものがあって、温暖化による常夏状況、家族の疎外感、異性との不一致、何かわからないものから責められてくるという恐怖は、世代を超えて共感するものがあるのではないかと思う。
エヴァンゲリオンの中のセリフ「ココロとカラダを一つにしたくないの?」は新鮮きわまりない。
そして生命のもともとをピトピトと辿っていくような気持ちよさ。
エヴァンゲリオンが「福音」という意味を持つように、大題が宗教的であり哲学的であり、そのテーマが延々と脈々と続けられてきたロボットSFアニメの路線上で語られるという大胆さ。
福音書の意味を誰も説き明かせないのと同じで、エヴァンゲリオンの意味を誰も説き明かせなくて当然だと思う。
戦うことへの諦めと戦う場合のふっきれの良さも、今の時代とシンクロしているようにも思う。ちょっと危ないけれども、戦わずしてやられるんだったら、戦うことも肯定されるラインは、自民党のマニフェストと同じだ(笑)守るという言葉は、戦うの言い換えにすぎないから…。
新劇場版のリミックスでどんどん進化していくと思うが、注目したいのは、序→破の次の後編と完結編だ。ここで新たな解釈が加わる可能性も大きいと思う。新劇場版は、解釈学の意味合いが大きいと思う。聖書のそれと同じような関係だ。
エヴァンゲリオンがここまで支持されているのは、制作側の取り組みへの真剣さかなとも思う。また安直に求められているものへの拒絶。
劇場版の「Air まごころを君に」の冒頭の性的描写のセリフ「オレって最低だ!!」
この行為は、かつてのアニメファンの究極のオタクがうる星やつらのラムちゃんにTV画面に向かってやっていた行為でもあり、それらを強烈にみせつけているところがとことん凄い。完成されたキャラにそのシーンを…か…と
エヴァンゲリオンは終わらない物語だ。聖書のように様々なメタファーを嚙みしめる。20歳すぎの層はそれをよく知っているのだと思う。決して結論を求めない。
ココロとカラダを一つにできる(ように思える)シーンに出くわした時、エヴァンゲリオンの映像を思い浮かべながら、なんとなくシアワセを感じて笑みするのではないかと思う。