マーケティング異想

2014年08月27日

米と大豆の関係 -食の原風景-

夏が来れば思い出す〜♪ ではないが
3歳〜8歳くらいまでの夏休みは毎年、新潟の松之山に放り込まれていた。理由はよくわからないが、父の故郷であるこの地は、日本三大秘境のひとつであり、当時(1960年代)でも日本の田舎の原型をとどめていた。

水田が広がり、大豆畑もあり、とれたての枝豆は色といい、味といい格別だった。この味が忘れられないので、大阪では枝豆はいっさい口にしなかった。
放し飼いの鶏の卵と、時々さばかれてのカシワの皮と肉。
きゅうりとなすび、トマトの野性的な醍醐味。
ばぁちゃんがつくる小粒のじゃがいもの煮っころがし。
メロンのような味の井戸で冷やした瓜。
なまづ釣りの時に食べる山菜がついた爆弾おにぎり。
峠の向こうの親戚も集まった時に行く料亭の鯉コク。
風呂場にはトグロを巻いた青大将。
虫捕りの帰り一緒についてくるトンボの大群。
昆虫図鑑のほとんどの虫が張り付く夜の窓。
天の川が鮮やかで明るい夜。

夏しか知らない新潟の山奥は天国のような場所だった。

特にツヤツヤのおいしいご飯と鮮やかな青緑の枝豆(大豆)は印象的だった。

おそらくその時が、自分はいちばん美味しい有機のものを食べていたんだろう。

そういうところで育った父だから、大の納豆好きで、膝の上に小さい私を乗せ、スプーンで納豆を口に入れていた記憶もある。当時は大阪人は納豆は食べず、少し遠くの八百屋さんまで行かないと納豆は手に入らなかった。

まぁ、こういう思い出は自分だけの特殊な体験だと思っていたが、水田の横の大豆畑の枝豆、納豆ごはんなどは、日本人が長い長い歴史の中で達成した食文化でもの凄く考えられたものだということが最近わかって感心した。体内では作れず食事で摂るしかない必須アミノ酸の9種類のうち、米はリジンが少なく、メチオニンが豊富。逆に大豆はリジンが豊富でメチオニンが少ない。両方を食すると完璧なアミノ酸バランスとなり、大豆のビタミンB1・B2が米の糖質と脂質をエネルギーに変え、元気になる構造となっている。科学の発達していない昔は、こういうことを体験と経験を積み重ねて辿り着いたと思うのだが、本当によくできているなと思う。

アミノ酸スコア表


納豆ごはん
ごはんとみそ汁(豆腐・揚げ入り)
ごはんと冷奴
豆ごはん

海外でも大豆ではないが、小麦やトウモロコシが主食のところは同じように豆(ひよこ豆・いんげん豆・えんどう豆・グリーンピース等)で補完するような関係を成立させている。欧米では豆乳がよく飲まれるようになっているが、パン(小麦)+豆乳(大豆)も理にかなっている。

しかし、ファーストフードの吉野家・すき家・松屋・なか卯に行っても、ごはんとみそ汁・納豆・冷奴の関係は野太く、あらためて凄いなぁと感じる。こういう和風ファーストフード店はチープメニューでさえ、栄養バランスが整っている。そりゃ長寿世界一国になるわな(笑)

そして最近、日本での米+大豆の関係は、弥生時代をさらに遡って、縄文時代中期(5000年前)からではないかと言われている↓↓↓↓↓

まめプラスサイト・大豆の歴史

ただならぬ関係とは、このことですね(笑)


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2012年11月26日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Q 神話の解体について

(ネット上には既にWikipediaの「ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Q 」も存在するので、ストーリーにも触れた記事となることをご了承ください)

神話的要素に神話を上塗りしてきたエヴァンゲリオンが、ついに神話を解体する方向へと走り始めた。それは、新劇場版が終りに近づいているかもしれないが、ラストのアスカ、レイ、シンジだけが歩くシーンには、あらゆる呪縛からとけた清々しさを感じ、庵野秀明は、ようやくエヴァとちゃんと向き合う、決着をつけようとしているのかなと感じた。それは、スタジオジブリ製作の特撮短編映画『巨神兵東京に現わる 劇場版』がQの前に同時上映されることでも、意味性の復帰、エヴァの原初的な衝動を示すかのように映った。

新劇場版 序が上映され、庵野秀明はガイナックスを退社しているが、破にしても今回のQにしても、見る側を突き放さず、制作に対してたっぷり愛情を注いでいるようにも思う。TV版はもとより、それを補完しようとした劇場版にも投げ槍な要素を含み、自分の分身であるエヴァがある意味、違う解釈されていくことにかなり抵抗していた表現が多々あったが、一度は冷却しかけたエヴァがゲームソフトなどによる熟成と2005年以降、パチスロ・パチンコ機により、新たなファンを巻き込んで覚醒すると、エンタテインメントアニメとして違う気流に乗ったように再生しはじめる。

これは、どういうことか?

一度、エヴァから離れるために、実写にも目を向けた庵野秀明だが、おそらく自分が想像する以上に、エヴァには、庵野秀明のすべてが注ぎ込まれていた。離れよう離れようとする度に、離れられないことに気がついたのではないか。そして、初期にはガンダムの富野喜幸や師匠の宮崎駿からエヴァの内向性と残虐性に痛烈な批判を受けていたが、場末であっても時代の無意識を呼吸しているパチンカーから絶大なる支持を得たとなると、アニメ界で評価される以上に一気に孤独感が融解したのではないかと思われる。

第1使徒から第17使徒、リリス、リリン、ゼーレのあたりの話は難解で、庵野秀明がつくりあげた神話だが、国際連合直属の非公開組織NERV(ネルフ)はエヴァンゲリオンにとって、揺らいではいけない基地なのだが、Qでは葛城ミサトをはじめリツコ、アスカ、マリなどが反ネルフ組織ヴィレに所属し、ネルフのエヴァを殲滅しようと活動しているところから始まる。そしてシンジとカヲルはダブルエントリープラグのネルフのエヴァ13号機に乗って、レイのMark.09、アスカの2号機、マリの8号機と交戦することになるのだが、ゲンドウの罠によって4thインパクトが起ころうとする。これは何とか食い止められるが、人類補完計画とは神話的な意味があろうとも、現実的には破滅の道であり、それをゲンドウが先導していることに驚く。シンジはネルフの13号機に乗るが、それは世界をやり直せると思ったからであり、リリスとMark.0.6に刺さる槍を抜いたのも世界をやり直せると思ったから…しかし槍を抜いた結果は使徒が活動再開してしまい13号機が覚醒、それを引き金に4thインパクトが発動しはじめる。

ここには今までの乗り越えられないシンジではなく、自分の意志で乗り越えようとしたシンジがいる。

また、疑問として、セカンドインパクト、サードインパクトが起こった真っ赤な地球に、もはや救われるものがあるのかということ。

エヴァンゲリオンとは、ストーリーの太骨は、父ゲンドウと母ユイ(レイ)、シンジのエディプス・コンプレックスの物語ととらえることもできる。そしてQにおいては、父にはめられていたとはいえ、世界をやり直す一心で父とは真逆の世界再生を目指し、父を乗り越えようとしたシンジがいた。

神話と呪縛(エディプスコンプレックス)の終わった世界の中で、歩き始めるアスカとシンジとレイ。行くあてもないはずなのだが、ヱヴァンゲリヲン新劇場版のFINALは存在する。

予告では、迷彩色のエヴァが多く出ていたので、またエヴァ同士の戦いがあるのだろうが、何を目的とした戦いなのだろうか?

それにしても1995年のTV版放映から、2012年の今まで17年。どんどん期待が増幅していくアニメは珍しいのだと思う。以前、それは1995年以降の新コードで表現されているからと論じたことがあるが、それは=殺伐とした社会のコードとマッチしていることを意味する。

そうであるならば、Qの神話の解体とエディプスコンプレックスの単純な克服はありえないことになってしまう。ドゥールズ・ガタリが「アンチ・オイディプス」で示したように、新たな関係性によって、別のコンプレックスが生じてしまい、世界が明瞭に開示されなければ、精神的な解放はありえないからだ。

そういう意味でも、FINALのアスカとシンジとレイがどういう関係を築くか、非常に興味深い。

【このブログの関連記事↓】
世界の中心は秋葉原という物語は1995年から始まった。

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2012年10月17日

村上春樹について FBのつぶやきより

最近はブログに書いていた内容をFacebookに書くことが多く、FBでは「友達」しか読めないようにしているのである意味、クローズ。時々、こうやって公開できるものは公開しましょうかね(・∀・)


【村上春樹】ノーベル賞を逃した村上春樹だが、その理由は、芥川賞を逃した時とよく似ているような気がします。【ノルウェイの森】の原型である【蛍】を読めば、ただの洋かぶれの作家ではなく、源氏物語の宇治十帖にもつながる文学性を持っていることがわかりますが、それが【蛍】に象徴されるように、淡くて現代(現在)を生きていない印象がするんですね。次にノーベル文学賞をとるとしたら村上春樹だと言っていた吉本隆明も「今を生きていたら…」と条件付きでした。安保のことでもサリン事件のことでも原発のことでも向き合ってるようで向き合っていない、エルサレム賞の時のスピーチの「壁と卵」の比喩がそれを表していますが、核心にふれないがための比喩が多いですね。小説の中でもそれがまだろっこしいと感じる人は多い、エロスも死んでますし。一方、ノーベル賞を受賞した莫言の方は、中国当局の検閲を避けるために比喩やメタファーを使い間接表現を駆使し、中国でタブーとされる政治的な問題に向き合ってきたという違いがある。「紅いコーリャン 紅高粱」なんかはやはり強いインパクトがありましたね。消極的なメタファーか、積極的なメタファーか、そしてそういうメタファーを使って、アジア的な問題をどれだけえぐり出しているか、それが今回の西欧人から見ての、興味だったと思います。ノーベル賞事務局長は村上春樹の件は「何も言えない」と語ってるわりにははっきり言ってるような気がするんですね(笑)「莫言氏は尊厳と生存のためにもがく20世紀中国の民衆の姿をドキュメンタリータッチで描き、さらに少年時代に親しんだ民話を融合させた。西欧かぶれしていないユニークな作家だ」 要は村上春樹の方は、芥川賞選考の時に大江健三郎らが評した「翻訳小説の読みすぎ」と、同じ評価を受けてしまったということ。日本人ならビートルズの曲名を題名にするなっといったところでしょうか(笑)

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tora7
snafkin7
30数年広告畑で畑を耕しています(笑)コピーライターでありながら、複雑系マーケティングの視野からWebプランニング、戦略シナリオを創発。2008年2月より某Web会社の代表取締役社長に就任。snafkin7としてのTwitterはこちらからどうぞ。Facebookはこちらから。
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