2013年04月22日

空飛ぶ広報室の現象学

gakky映画「ハナミズキ」で第三舞台の大高洋夫が警官役で出演していて、「生ガッキー」は超絶可愛かったとツイートしていたが、何故か「空飛ぶ広報室」でも、1〜2回目に大高洋夫が報道記者時代の容疑者役で出演している。そんな細かい観察はどうでもいいのだが(笑)有川浩原作のこのドラマ、ものの見方を初歩的に提示していて、後々の展開がもの凄く楽しみだ。

ありのままを見る。

こんな単純なことに、ドイツ系の現象学者は何十年も何十冊も歳月と労力を費やし、そしてそれは、アメリカの複雑系科学の色を帯びながら日本で内部観測の考え方まで流れていったが、「ありのままを見る」ことは実践で花開いてこそで、日本ではおそらく表舞台でテーマになったことも真剣に語られたこともないような気がする。

「報道」と「広報」のルーツは非常にアメリカ的なもの。


ドラマのガッキーは、それをさらに日本的に平板化したスタイルを身につけた記者として初め振る舞う。「報道の正義」というやつだ。こういう「報道の正義」を揶揄した物語は過去あまりにも有名な映画であった。「ローマの休日」。この映画がかつて現象学の例としてひかれたことはないが、実の脚本家がアメリカ人であるにもかかわらず、あえてヨーロッパを舞台にして、アメリカ的なものの見方、ビジネスの仕方を批判しているようなところがある。アン王女に近づけば近づくほど、内部観察すればするほど、記事にできなくなってしまい、特ダネ・スクープの材料をすべてアン王女に渡してしまう。非常にヨーロッパ的な結末だ。恋してしまったが故にというのが一般解釈だが、レッドパージで追われていた実の脚本家がローマに込めた思いは複雑だ。ありのままを見たら「報道」ではなく「物語」になってしまうのだ。

なんのヘンテツもない「ナポリタン」に「物語」がある。


「空飛ぶ広報室」のガッキーは初め、街角で人気の「ナポリタン」に興味もなく外づらの取材をし、惰性で編集をしてしまう。しかし、元パイロットの空井がこの店の主人と会話をし特別の事情があったことを聞きつけると、再編集するために再び店を訪れ、その味の奥にあるストーリーを自分の舌で実感する。ガッキーが初めて「ありのままを見る、聞く、味わう」体験だ。ガッキーの過去の報道記者時代の判断づけが中止される。そして大事なことに開眼する。

「ありのままを見る」とは、色眼鏡をすべて外すこと、中に入り込むこと、話をしながらさらにその思いを聞くこと、そしてもう一度全体を見ること、そういった現象学のエッセンスがこのエピソードにすべて入っている。

現象学などややこしいものを持ち出さなくても、原作者の有川浩は、ものの見方を真剣に問う作家のように思う。「フリーター、家を買う」でも、フリーターにはフリーターなりにいろんな事情があることを見せているし、「阪急電車」では単なる恋人同士、ばぁちゃん、奥さんにもいろんな事情があることを浮き彫りにして、どんな対象でも「ありのまま」を見ようとする。どんな対象でも「ありのまま」見ようとするから自衛隊でも立派な物語が成立する。

歳くった人は無理だろうが(笑)、若くて「報道関係」「広報関係」にいる人は、このドラマを馬鹿にせずに、ちょっと心を許す感覚で見て欲しいと思う。意外と直接的に仕事にいきることが多いように思う。

「ありのまま見る」ことの結末がどうなるか?本当に「ありのままを見る」ことは可能なのか?「ありのままを見る」ことに終わりはあるのか?

このドラマをありのまま見ようと思います。よくある終わり方ですが、これで終わります(笑)

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空飛ぶ広報室の現象学3

空飛ぶ広報室の現象学4



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30数年広告畑で畑を耕しています(笑)コピーライターでありながら、複雑系マーケティングの視野からWebプランニング、戦略シナリオを創発。2008年2月より某Web会社の代表取締役社長に就任。snafkin7としてのTwitterはこちらからどうぞ。Facebookはこちらから。
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