2011年01月27日
ジャガー2001-3
この公園は、僕たちを時々不思議な気持ちにしたりする。街の中と違って、あまりにもバカデカイ人工物がうっすら見えるだけに、ニュース報道的な情報がもの凄く薄っぺらに感じる時がよくある。大きな橋、大きなクレーン、大きな倉庫群、大きな港、大きな船、そんなものを眺めていると、この国の経済がちょっとやそっとで崩れるようには思えない。中途半端なビル街の会社のデスクでパソコンをいじってる時などは、マイナスの経済情報もリアリティがあるのだけども、僕たちは、そんなことを感じる以前に見落としている風景がたくさんあることに気づくべきだ。この経済がなかなか崩れないのは、そんな大きな風景に支えられているからではないかと思ってしまう時がある。破綻するのは、ネットワーク上の経済である。取り残された大きな景色は崩れようにも崩れない強靱な構造をしている。そういう問題じゃないと言われるかもしれないが、何か確信めいたものを僕は持っている。いつか崩壊するかもしれない。そんな思いに怯えて過ごしていくなら、こんなことを現実として思ってみるのもいいと自分では思っていた。
ヨージはナーコのことをわかっているように語っていたが、ストレンジャー軍団の数が一気に減ったかと思うと、ナーコもパーティに姿を見せなくなっていた。ヨージはあいかわらず顔を見せていた。が、ストレンジャー軍団の数が一気に減ったことと、ナーコがパーティに来なくなったことについて何も知らなかった。ヨージはコンタクトをとっているようで実は、薄っぺらな関係だったのかもしれない。ナーコはヨージの知らない何かを知ったのかもしれない。マキやミーコは、どこかのレイブに出かけたんじゃないのみたいな言い方をしていたので、ある意味、心配はしていなかったが、しばらくすると、タケシが話しかけてきた。
「ナーコなぁ」
「わかったか、何か?」
「俺んとこの大学病院に来てな、カウンセリングしてる、俺が…」
「どうしたぁ」
「見えるんだと」
「何が」
「もう一人の自分が、目の前に」
「幻覚かぁ」
「幻覚と呼ぶには、リアリティがありすぎるようにも思う」
「ナーコは何もやってなかったよなぁ、キノコなんかもまるっきり…」
「だから、余計にやっかいだな、延々、もう一人の自分が語りかけてくるので、へとへとになるって」
「どうしてるの、お前は」
「薬で抑えることはできるが、もっと根本的なことを解決しないと、幻覚は消えないだろうな」
「根本的なこと?ストレンジャー軍団とは関係ないのか?」
「よくわからないが、今のところ、そんなことは聞き出せてない」
「そうか」
「時間はかかるかもな、通院ですむレベルだから、そのうちなんとかなるさ」
「そうか」
ついにというか、パーティの親密ともいえる人の中で、欠落者が出た。僕はタケシにナーコのマンションを聞き出して、というか、許可を得て、仕事帰りに会いに行ってみた。タケシには『お前、ナーコのこと気に入ってたもんな』とも言われたが、それよりも何があったのか、聞いてみたかった。ナーコのマンションは高速道路に面したところにあった。騒音が継続的にあったが、ナーコの部屋に入った途端、騒音はピシャリとなくなっていた。
「お見舞い?」ナーコはいつものように笑った。
「ビックリしたでしょ」表情もいたってフツーだった。
「タケシに聞いてビックリしたよ。こんなこと訊いていいのかもわからないけど、幻覚が見えるんだって」
「精神科医的には幻覚だけど、私にとっては現実だし、しつこい話し相手ね」
「何て、言ってくるの?」
「パーティに誘ってくるんだけど」
「どこの?」
「マリナルコ」
「マリナルコぉそれ、どこだ」
「メキシコらしい」
「メキシコぉ、そんなところのパーティで何をしようっていうんだろう」
「いくら、言っても無駄なのよ、ここは日本だって言っても。私はいっぱいパーティに参加してきたし、パーティそのものに後悔はないって言ってもね」
「この国は何段階にも折れ曲がってるし、ここにいたら、つぶされるって」
「ある意味、当たってるかもな、そんなこと言ってる場合じゃないけど…」
「でしょ、それが自分とのそっくりさんに言われるんだから…自分は双子だったかもしれないなんて気になるもの」ナーコとしゃべっていてもナーコが異常者という気にはならない。ただもう一人のナーコがナーコに語りかけてくるという事実以外には。
「あの、南港のパーティのストレンジャー軍団とは何か話せたの?」
「ここはいいパーティだって言ってたよ」
「あいつらに誉められてもなぁ。他には何も言ってなかった?」
「場所を変えるとは言ってたけど、特に何かをしているわけでもないね彼らも。アンダーグラウンドな場所をずっと求めているというか、彼らと私の幻覚と何か関係があるといえば言えるし、ないといえばないかもね」
「微妙な言い方をするね」
「ビミョーはビミョーよ」
「彼らの語ってたことと、もう一人の私とよく似ている部分もあるから」
「どんなふうに」
「間違っていた、というのが彼らの口癖だったわね。何が間違っていたのか詳しくは訊かなかったけど、どうやら歴史のことみたいね。」
「歴史を否定しているのか、奴ら」
「結構、最近のことみたいだけどね、よくわからないけど」
「似ている部分があるって、否定しているのか、もう一人のナーコも」
「否定してるわね、私の生きてきたすべてをね」
「すべてをって、すべてを?」
「そう、だからって、マリナルコのパーティに行って何かあるとも思えないしね。でもダメなのよ。ずっと誘ってくるのよ」
「今も」
「今は待機中ね、その壁のところで待ってるわ」ナーコは僕の後ろの壁を指さした。一瞬、僕はゾッとしたが、目の前のナーコがあまりにフツーなのでまだ冷静でいられた。
ナーコに会いに行った後、タケシに電話で報告してみた。
「ナーコなぁ、見た目は本当にフツーだな」
「あぁ、フツーだろ、もう一人の自分が見えるって言わなければ、すべて正常だ」
「お前、どうするんだ?」
「自分の否定形が見えるっていうのも、そんなに複雑なことじゃないし、急にそんな感情が芽生えるのもありえることだ。それにリアリティがありすぎるからヤッカイだけどな。だからといって、マリナルコに連れて行けば、すべて解決するもんでもないと思う」
「メキシコに行って、そこがまた理想形じゃなかった場合だよな」
「そうだ、また、否定する別の人格が現れるかもしれないし」
「でも、あのマリナルコに誘うナーコは、メキシコに行くまで消えないんだろうか」
「薬を飲んでも、消えないし、夢を見ていても出てくるそうだ」
「ヤッカイだな」
「ヤッカイだ」
「対処なしか?」
「彼女の幻想だが、彼女と切り離された幻想でもあるし、そこがヤッカイだな」
「俺たちとは、コンタクトがとれないっていうわけか」
「彼女に思い切り自己肯定する力があればの話だが、そんなことナーコにできると思うかあんなに神秘的にダンスのできるナーコだからな。自己肯定とか否定の次元でないところに行く力をはじめから持ってるわけだし」
「分裂する素質ははじめから持ってたって言いたいのか?」
「そういう言い方もできるが、しばらく様子はみてみないとわからない」症例とか遠い話ではなく、あまりに身近な出来事だったので、わかろうとする入り口はいっぱいあった。本人が真剣に苦しんでいる場合はもっと僕たちももっと苦しんだろうが、本人が余裕の対応を見せていたので、まだ落ち着けた。
ナーコがパーティに来なくなってからも僕はパーティのある日は参加していた。ミーコはゴア系の4つ打ちのサウンドが響くと元気に踊っていた。マキも一緒にはしゃいでいた。二人の身体のしなりを見ていると、何事もなかったようにも思えてくる。元気がなくなっていたのは、僕たち男どもだった。タケシも顔を見せる日もあったがたまにしか参加しないようになっていた。ヨージもストレンジャー軍団がいなくなって、多少、元気がなさそうだった。のことも、そんなに口に出さなくなった。しかし、いつからかURのパーカーを身につけてはいたけども。
「ナーコ、まだよくならないんだって?」ヨージが訊いてきた。
「タケシにまかせるしか、ないかもな」
「そんなにひどくないんだろう」
「あぁ」会話が続かなくなると僕もすぐにダンスの熱帯の中に入っていった。自己肯定なんてできるんだろうか、ダンスをしながらもそんな考えが浮かんでくる。自分を実感できるが、完全な肯定なんてできるわけがない。僕は幻想が見えないだけのおかしな精神の持ち主なんだとも思えてくる。ダンスをしていても、悩めばとことん悩む方向へと気持ちが偏ってくる。無意識の蓋が開けば、かなりヤバイ感傷がやってくる場合もある。ナーコの場合は、この蓋を開けすぎたのだろう。そんなことはタケシだってわかっているはずだ。ただ彼は精神科医としての対処に戸惑っているだけだと思う。何故こんなことにエネルギーを費やさなければならない時代になったのだろう。ダンスで発散しているつもりでも、それが自己治癒の意味合いも兼ねてくる。その回路が少しだけ狂ってナーコみたいになる人間もいる。コントロールされている時代のダンスは、かなりコントロールされているサウンドでないと酔いしれないのか。というか、酔いしれていると思っている自分がいる。ややこしい時代なのだ。そして、そこから先、どこかに広がるというわけではない。朝はやってくるが、サウンドはループ音がフェイドアウトして消えていくだけである。チルアウトサウンドに変わっても、爽やかな今日を約束しているわけでもない。自分でもこんな生活をいつまで続けていくのか不思議だった。なかなか終わらない世界の中で、終わらないサウンドの波の中にい続けること、そのことに大きな価値はないと思うが、その中にいないと落ち着かない自分がいた。レイバー仲間がだんだんと自殺していく話は以前はよく聞いた。彼らは踊っていくうちに、もうどうでもよい気分になっていくことは予想できた。特に自然の中だと、その自然に帰っていくべきだという気分になることがある。普段の日常の中にダンスミュージックが浸透しているわけでもなく、彼らは、自然のリズムの中に身を置くことを選んだのだと思う。時計の針の小さなリズムよりは、惑星の自転や公転のリズムを選んだのだろう。それは微かにでもわかるような気はした。
冬に近づき、この公園のパーティにも焚き火スペースが設けられた日、久しぶりにナーコは姿を見せた。部屋にいる時間が多かったのか多少、ふっくらしたように見えたし、唇が少し荒れているようにも見えた。それを見ると幻覚はまだ完治していないように思えた。タケシからもそんな報告がなかったし、この日、タケシは姿を見せていなかった。
「久しぶり、ナーコぉ」
「おぅ」と視線を合わさずにナーコは僕の呼びかけに応えた。
「今日はね、決断の日なのよ」しばらく会ってなかったので、その決断がどんなものか皆目、見当もつかなかったが何かいいものであるような気がした。
「決断って?」
「付いてきた、こいつをここで殺すの」一瞬ギョッとしたが、実際の人でないことに気がついて、落ち着こうとしたが、幻覚であったとしても、もう一人の自分を殺すという表現にもう一度ギョッとした。
「この景色を見せながらね、こいつを公園の端のコンクリートの防波堤から突き落としてやるわ」言ってることは恐かったが、顔は狂気を帯びてるわけでもなかった。
「そんなことして、もう一人のナーコは消えるのか?」
「消すのよ、マリナルコでもどこでも行きなさいって、行けるもんならね」ナーコはうつむきかげんに小さく笑った。タケシがこの場にいたら、どうするんだろう。そんなことを考えているうちに、ナーコはだんだんと左手の焚き火のある場所からどんどんと歩を進め、かなり高い防波堤の上によじ登っていた。まわりはかなり暗かったが、白いダウンジャケットを着ているナーコの姿ははっきり見えた。あまりに突飛な行動だったので、走って制止するものもいず、ナーコは少し面積のある防波堤の上を平均台を歩くように綺麗に歩いていた。
「おい、トオル、あれ大丈夫かぁ」ヨージが心配そうに僕をつついた。
「あぁ」僕はこれから起こることに自信はなかったが、本人には危害はないとは思っていた。パーティ会場には、重低音のトライバルサウンドが流れていた。ナーコの向こうには、遠くの大きな倉庫街がうっすらと見えていた。
「行きなさいよぉ」ナーコの叫び声が聞こえた。
「寒い海は、どこにでも通じてるわぁ」ナーコはナーコを突き落としている。そんなふうにも見えた。
「狂気だな」ヨージは言った。
「あぁ」僕はうなづいた。
しばらく防波堤の上で格闘しているように見えたが、その姿がなんだか美しい演技のようにも見えて、その光景を見ているものは、みんな静かに見守っていた。その防波堤に登るのは、朝日をじっくり眺める時だった。パーティの終わり間際に何人かの男がそこに座っている時がある。暗い時間にそこに人がいることなどなかった。ナーコは格闘が終わると、そこに腰をかけて、冷たく暗い海をぼぉと眺めていた。僕とヨージは防波堤の方まで行き、ナーコの下から声をかけてみた。
「どうなった?」
「泳いでいったわ」
「どこに」
「知らないわよ。どこまでもリアリティのある奴なのよ、私の分身ん。でももう私の前には現れない気がするわ」
「そうか、良かったな」
「良かったかも」僕とヨージはナーコを休憩用のテントまで連れて行き、座らせた。一人の格闘だったが、ナーコの手の甲は擦り傷だらけだった。白いダウンジャケットにも多少、血がついていた。
「ナーコぉ、もしかしたら…」ヨージはゆっくりと続けた。
「お前、ストレンジャー軍団の誰かとつきあってたんじゃないか?」ナーコは表情も変えずにしばらく黙っていたが、
「失恋して、精神がやられたってわけ」
「違うか?」
「違うわよ、まったくぅ」
「そうか」
「単純な推理は立てないでね」
ヨージはナーコのことをわかっているように語っていたが、ストレンジャー軍団の数が一気に減ったかと思うと、ナーコもパーティに姿を見せなくなっていた。ヨージはあいかわらず顔を見せていた。が、ストレンジャー軍団の数が一気に減ったことと、ナーコがパーティに来なくなったことについて何も知らなかった。ヨージはコンタクトをとっているようで実は、薄っぺらな関係だったのかもしれない。ナーコはヨージの知らない何かを知ったのかもしれない。マキやミーコは、どこかのレイブに出かけたんじゃないのみたいな言い方をしていたので、ある意味、心配はしていなかったが、しばらくすると、タケシが話しかけてきた。
「ナーコなぁ」
「わかったか、何か?」
「俺んとこの大学病院に来てな、カウンセリングしてる、俺が…」
「どうしたぁ」
「見えるんだと」
「何が」
「もう一人の自分が、目の前に」
「幻覚かぁ」
「幻覚と呼ぶには、リアリティがありすぎるようにも思う」
「ナーコは何もやってなかったよなぁ、キノコなんかもまるっきり…」
「だから、余計にやっかいだな、延々、もう一人の自分が語りかけてくるので、へとへとになるって」
「どうしてるの、お前は」
「薬で抑えることはできるが、もっと根本的なことを解決しないと、幻覚は消えないだろうな」
「根本的なこと?ストレンジャー軍団とは関係ないのか?」
「よくわからないが、今のところ、そんなことは聞き出せてない」
「そうか」
「時間はかかるかもな、通院ですむレベルだから、そのうちなんとかなるさ」
「そうか」
ついにというか、パーティの親密ともいえる人の中で、欠落者が出た。僕はタケシにナーコのマンションを聞き出して、というか、許可を得て、仕事帰りに会いに行ってみた。タケシには『お前、ナーコのこと気に入ってたもんな』とも言われたが、それよりも何があったのか、聞いてみたかった。ナーコのマンションは高速道路に面したところにあった。騒音が継続的にあったが、ナーコの部屋に入った途端、騒音はピシャリとなくなっていた。
「お見舞い?」ナーコはいつものように笑った。
「ビックリしたでしょ」表情もいたってフツーだった。
「タケシに聞いてビックリしたよ。こんなこと訊いていいのかもわからないけど、幻覚が見えるんだって」
「精神科医的には幻覚だけど、私にとっては現実だし、しつこい話し相手ね」
「何て、言ってくるの?」
「パーティに誘ってくるんだけど」
「どこの?」
「マリナルコ」
「マリナルコぉそれ、どこだ」
「メキシコらしい」
「メキシコぉ、そんなところのパーティで何をしようっていうんだろう」
「いくら、言っても無駄なのよ、ここは日本だって言っても。私はいっぱいパーティに参加してきたし、パーティそのものに後悔はないって言ってもね」
「この国は何段階にも折れ曲がってるし、ここにいたら、つぶされるって」
「ある意味、当たってるかもな、そんなこと言ってる場合じゃないけど…」
「でしょ、それが自分とのそっくりさんに言われるんだから…自分は双子だったかもしれないなんて気になるもの」ナーコとしゃべっていてもナーコが異常者という気にはならない。ただもう一人のナーコがナーコに語りかけてくるという事実以外には。
「あの、南港のパーティのストレンジャー軍団とは何か話せたの?」
「ここはいいパーティだって言ってたよ」
「あいつらに誉められてもなぁ。他には何も言ってなかった?」
「場所を変えるとは言ってたけど、特に何かをしているわけでもないね彼らも。アンダーグラウンドな場所をずっと求めているというか、彼らと私の幻覚と何か関係があるといえば言えるし、ないといえばないかもね」
「微妙な言い方をするね」
「ビミョーはビミョーよ」
「彼らの語ってたことと、もう一人の私とよく似ている部分もあるから」
「どんなふうに」
「間違っていた、というのが彼らの口癖だったわね。何が間違っていたのか詳しくは訊かなかったけど、どうやら歴史のことみたいね。」
「歴史を否定しているのか、奴ら」
「結構、最近のことみたいだけどね、よくわからないけど」
「似ている部分があるって、否定しているのか、もう一人のナーコも」
「否定してるわね、私の生きてきたすべてをね」
「すべてをって、すべてを?」
「そう、だからって、マリナルコのパーティに行って何かあるとも思えないしね。でもダメなのよ。ずっと誘ってくるのよ」
「今も」
「今は待機中ね、その壁のところで待ってるわ」ナーコは僕の後ろの壁を指さした。一瞬、僕はゾッとしたが、目の前のナーコがあまりにフツーなのでまだ冷静でいられた。
ナーコに会いに行った後、タケシに電話で報告してみた。
「ナーコなぁ、見た目は本当にフツーだな」
「あぁ、フツーだろ、もう一人の自分が見えるって言わなければ、すべて正常だ」
「お前、どうするんだ?」
「自分の否定形が見えるっていうのも、そんなに複雑なことじゃないし、急にそんな感情が芽生えるのもありえることだ。それにリアリティがありすぎるからヤッカイだけどな。だからといって、マリナルコに連れて行けば、すべて解決するもんでもないと思う」
「メキシコに行って、そこがまた理想形じゃなかった場合だよな」
「そうだ、また、否定する別の人格が現れるかもしれないし」
「でも、あのマリナルコに誘うナーコは、メキシコに行くまで消えないんだろうか」
「薬を飲んでも、消えないし、夢を見ていても出てくるそうだ」
「ヤッカイだな」
「ヤッカイだ」
「対処なしか?」
「彼女の幻想だが、彼女と切り離された幻想でもあるし、そこがヤッカイだな」
「俺たちとは、コンタクトがとれないっていうわけか」
「彼女に思い切り自己肯定する力があればの話だが、そんなことナーコにできると思うかあんなに神秘的にダンスのできるナーコだからな。自己肯定とか否定の次元でないところに行く力をはじめから持ってるわけだし」
「分裂する素質ははじめから持ってたって言いたいのか?」
「そういう言い方もできるが、しばらく様子はみてみないとわからない」症例とか遠い話ではなく、あまりに身近な出来事だったので、わかろうとする入り口はいっぱいあった。本人が真剣に苦しんでいる場合はもっと僕たちももっと苦しんだろうが、本人が余裕の対応を見せていたので、まだ落ち着けた。
ナーコがパーティに来なくなってからも僕はパーティのある日は参加していた。ミーコはゴア系の4つ打ちのサウンドが響くと元気に踊っていた。マキも一緒にはしゃいでいた。二人の身体のしなりを見ていると、何事もなかったようにも思えてくる。元気がなくなっていたのは、僕たち男どもだった。タケシも顔を見せる日もあったがたまにしか参加しないようになっていた。ヨージもストレンジャー軍団がいなくなって、多少、元気がなさそうだった。のことも、そんなに口に出さなくなった。しかし、いつからかURのパーカーを身につけてはいたけども。
「ナーコ、まだよくならないんだって?」ヨージが訊いてきた。
「タケシにまかせるしか、ないかもな」
「そんなにひどくないんだろう」
「あぁ」会話が続かなくなると僕もすぐにダンスの熱帯の中に入っていった。自己肯定なんてできるんだろうか、ダンスをしながらもそんな考えが浮かんでくる。自分を実感できるが、完全な肯定なんてできるわけがない。僕は幻想が見えないだけのおかしな精神の持ち主なんだとも思えてくる。ダンスをしていても、悩めばとことん悩む方向へと気持ちが偏ってくる。無意識の蓋が開けば、かなりヤバイ感傷がやってくる場合もある。ナーコの場合は、この蓋を開けすぎたのだろう。そんなことはタケシだってわかっているはずだ。ただ彼は精神科医としての対処に戸惑っているだけだと思う。何故こんなことにエネルギーを費やさなければならない時代になったのだろう。ダンスで発散しているつもりでも、それが自己治癒の意味合いも兼ねてくる。その回路が少しだけ狂ってナーコみたいになる人間もいる。コントロールされている時代のダンスは、かなりコントロールされているサウンドでないと酔いしれないのか。というか、酔いしれていると思っている自分がいる。ややこしい時代なのだ。そして、そこから先、どこかに広がるというわけではない。朝はやってくるが、サウンドはループ音がフェイドアウトして消えていくだけである。チルアウトサウンドに変わっても、爽やかな今日を約束しているわけでもない。自分でもこんな生活をいつまで続けていくのか不思議だった。なかなか終わらない世界の中で、終わらないサウンドの波の中にい続けること、そのことに大きな価値はないと思うが、その中にいないと落ち着かない自分がいた。レイバー仲間がだんだんと自殺していく話は以前はよく聞いた。彼らは踊っていくうちに、もうどうでもよい気分になっていくことは予想できた。特に自然の中だと、その自然に帰っていくべきだという気分になることがある。普段の日常の中にダンスミュージックが浸透しているわけでもなく、彼らは、自然のリズムの中に身を置くことを選んだのだと思う。時計の針の小さなリズムよりは、惑星の自転や公転のリズムを選んだのだろう。それは微かにでもわかるような気はした。
冬に近づき、この公園のパーティにも焚き火スペースが設けられた日、久しぶりにナーコは姿を見せた。部屋にいる時間が多かったのか多少、ふっくらしたように見えたし、唇が少し荒れているようにも見えた。それを見ると幻覚はまだ完治していないように思えた。タケシからもそんな報告がなかったし、この日、タケシは姿を見せていなかった。
「久しぶり、ナーコぉ」
「おぅ」と視線を合わさずにナーコは僕の呼びかけに応えた。
「今日はね、決断の日なのよ」しばらく会ってなかったので、その決断がどんなものか皆目、見当もつかなかったが何かいいものであるような気がした。
「決断って?」
「付いてきた、こいつをここで殺すの」一瞬ギョッとしたが、実際の人でないことに気がついて、落ち着こうとしたが、幻覚であったとしても、もう一人の自分を殺すという表現にもう一度ギョッとした。
「この景色を見せながらね、こいつを公園の端のコンクリートの防波堤から突き落としてやるわ」言ってることは恐かったが、顔は狂気を帯びてるわけでもなかった。
「そんなことして、もう一人のナーコは消えるのか?」
「消すのよ、マリナルコでもどこでも行きなさいって、行けるもんならね」ナーコはうつむきかげんに小さく笑った。タケシがこの場にいたら、どうするんだろう。そんなことを考えているうちに、ナーコはだんだんと左手の焚き火のある場所からどんどんと歩を進め、かなり高い防波堤の上によじ登っていた。まわりはかなり暗かったが、白いダウンジャケットを着ているナーコの姿ははっきり見えた。あまりに突飛な行動だったので、走って制止するものもいず、ナーコは少し面積のある防波堤の上を平均台を歩くように綺麗に歩いていた。
「おい、トオル、あれ大丈夫かぁ」ヨージが心配そうに僕をつついた。
「あぁ」僕はこれから起こることに自信はなかったが、本人には危害はないとは思っていた。パーティ会場には、重低音のトライバルサウンドが流れていた。ナーコの向こうには、遠くの大きな倉庫街がうっすらと見えていた。
「行きなさいよぉ」ナーコの叫び声が聞こえた。
「寒い海は、どこにでも通じてるわぁ」ナーコはナーコを突き落としている。そんなふうにも見えた。
「狂気だな」ヨージは言った。
「あぁ」僕はうなづいた。
しばらく防波堤の上で格闘しているように見えたが、その姿がなんだか美しい演技のようにも見えて、その光景を見ているものは、みんな静かに見守っていた。その防波堤に登るのは、朝日をじっくり眺める時だった。パーティの終わり間際に何人かの男がそこに座っている時がある。暗い時間にそこに人がいることなどなかった。ナーコは格闘が終わると、そこに腰をかけて、冷たく暗い海をぼぉと眺めていた。僕とヨージは防波堤の方まで行き、ナーコの下から声をかけてみた。
「どうなった?」
「泳いでいったわ」
「どこに」
「知らないわよ。どこまでもリアリティのある奴なのよ、私の分身ん。でももう私の前には現れない気がするわ」
「そうか、良かったな」
「良かったかも」僕とヨージはナーコを休憩用のテントまで連れて行き、座らせた。一人の格闘だったが、ナーコの手の甲は擦り傷だらけだった。白いダウンジャケットにも多少、血がついていた。
「ナーコぉ、もしかしたら…」ヨージはゆっくりと続けた。
「お前、ストレンジャー軍団の誰かとつきあってたんじゃないか?」ナーコは表情も変えずにしばらく黙っていたが、
「失恋して、精神がやられたってわけ」
「違うか?」
「違うわよ、まったくぅ」
「そうか」
「単純な推理は立てないでね」