2010年09月13日

玉井國太郎くんに捧げる

1979年の4月下旬だったと思う。玉井國太郎くんが上京したての私の日野のアパートを訪れてきてくれて、現代詩のこと、文学のこと、吉本隆明のこと、自己紹介がてらお互いいろいろ語ったと思う。私が19歳、彼が20歳。

もうその時、彼はユリイカにいろいろ詩を発表しており、当時でいえば平出隆とか荒川洋治などの次にくる天才詩人だと私は思っていた。

「玉井さんのその深い言葉群はどこからでてくるの?」
いろいろ彼は語ってくれたが、ふと
「おじいちゃんが火野葦平なんだ……」

それで私は少し安心したというか、芥川賞作家の孫ならこの才能はアリだなと勝手に理解した気持ちになった。彼の書くものはそれほど凄かった。


かつぎ挙げた前史をねじりおえて
目かくしして 夢にみるおとこ
せせらぎに心臓を寄せて
かたちを嫌って水をはるかに安らぐ
隆盛のおしまい

ここを通って川筋の家々
雨は却ってこの一帯を指して
一つ一つ 日陰にことさら余白を抒べる
雫に情をつくり
ひとりのおんなを逆風に据えると
橋げたは空に架かった

中央大学 現代詩研究会発行 
「未明」第八号 玉井國太郎 揺春期より


今思うと、この時の現詩研のメンバーは濃密だった。後にミュージックライフの編集長になる古森優先輩の渋谷の長編詩は素晴らしかったし、後に記者になり吉本隆明本の編纂にも関わる大日向公男先輩の詩も夕方の陽射しを感じるような美しいものだった。正義感の強い阿世賀陽一先輩はいつのまにか社会保険労務士として活躍し中小企業の大きな力になっているようだ。

10人くらいがメンバーだったと思うが、全員が吉本隆明・芹沢俊介・菅谷規矩雄のファンであり、私が大学に入り、現詩研に入った最初のテキストも吉本隆明の「戦後詩史論」であった。私は大阪の高校生にしては珍しく、吉本隆明の主要著書はほとんど読んでおり、クソ生意気な新入生だったと思う。「戦後詩史論」の解釈も、“修辞的な現在”まで語られているなら、もう現代詩は終わっているんじゃないかという立場だった。吉本隆明の講演会でも「終わっている現代詩と歌謡詩を比較して語るのは確かに面白いですけど卑怯じゃないですか」と畏れ多くも発言したことがある(笑)吉本さんはそのジョークの意味も承知して「僕は卑怯なんですよ」と笑って答えた。

そんな私だから、玉井國太郎くんとは意見がよくぶつかった。「それは違うよ」とよく言われたのを思い出す。玉井くんの言ってる意見は正論だと思うのだが、あまのじゃくの私は、あえて違う意見を述べたりした。そんな私でも、玉井くんは人なつっこく、学食とかでよく声をかけてくれたりした。1979年の5月に私の父親が亡くなったが、心配して励ましてくれたのも玉井くんだった。

父親の葬式を終えた後、玉井くんの家を訪れたことがある。彼の部屋にはピアノがあったので、何曲か弾いてもらった記憶がある。かなり弱っている心に彼の弾くピアノの音は清冽すぎて、思わず泣きそうになり「ありがとう、もういいです…」と弾くのを途中でやめてもらった。この人は詩だけじゃないんだなと吃驚した。学校の教師が弾く生ピアノしか聴いたことがない私、その滑らかな優しいタッチの生ピアノを聴いて、玉井くんは私とかなり違うところで生きてると思った。


私という戯れが
呪々に傾いた
未完のくちばしに
自在の種子 白痴の熱を傾ける
火の見える処まで
つぶされる
灰色の気狂いの距離
(眼下に羽根を休める都市へ
うたおうとして
身を躍らせる)

樹指の木々にぶらさがって
爆発する野鳥たち
歩き始めた
蒼いアサガオの解体
世界の理由をひきずって
また加速する視線
光に迷い込む
私という
呪々の
傾斜

中央大学 現代詩研究会発行 
「未明」第九号 玉井國太郎 斜向のマチエールより


その後、私は日野からバイトに便利な新宿の方に移り、現代詩研究会も大学2年くらいにはもう辞めていたと思う。玉井くんとは大学では会うが、あまり深く語った記憶は思い出せない。

それから、後に新聞記者になる遠山仁くんの府中のアパートに私はよく出入りしていたが、そこで、後にZABADAKを結成する吉良くん、玉井くんが来て、ずっと酒を飲んでたことがある。何をしゃべっていたかは思い出せない。その時はもう大学3年くらいで、玉井くんは学園祭の何かのバンドでキーボードを担当していたと思うが、なんかそんな話をしていたのではないかと思う。

あと、前後が全く思い出せないのだが、国立の小さな公園で、後に芥川賞作家で国際的な作家になる多和田葉子さんを紹介されたことがある。小さな同人誌をもらったが、「逆さ吊り鮟鱇 第5号」だが発行が1981年3月10日となっているので、大学3年くらいのことだと思う。多和田葉子さんの「停車場」という小説は、その頃、まだ私小説っぽく、玉井くんとのやりとりかなと思えるようなことが書いてあった。

ここでも玉井くんは多くの詩を書き綴っている。彼の詩のスタイルは「愛」と「怒り」にみちみちて、決して時代に迎合しない言葉群だ。どこでそんなに言葉の訓練をしたんだと思うくらい、数々の言葉が綺麗に踊っている。
同時期、同級の加茂光一くんが「点」という同人誌をつくるというので、私も「原始林」という小説と「あなたにコロッケは似合わない」という詩を寄稿したが、そこにも玉井くんは「遊戯説」という詩を寄稿してくれている。

後に、吉本隆明が「日本語のゆくえ」という本を出したが、そこで今の若い人達の詩は「無」だとしているが、まだマシなのが多和田葉子の「傘の死体とわたしの妻」詩集だと評している。

玉井國太郎という詩人は、何だったのかと思う。彼は多彩が故に、あるいは文学の「無」の時代を知り尽くしていたが故に、本当のことしか書かなかった本当の詩人だと思う。ユリイカでいくつか書いていた評論も読んだが、あまりにも知的なのだ。それと遠慮の固まりなのだ。

玉井國太郎とアメリカのミュージシャン“モービー”を比較することを私は好む。風貌もよく似ていて、近親に白鯨を書いたメルヴィルがいたりする。モービーのライブを見に行ったことがあるが、なんか玉井くんを思い出したりした。モービーはたまたま、“GO”という曲がレイブアンセムとなって世界スターとなったが、いい曲と詩を書いていても、注目されない不遇の時も長かった。

玉井くんは、だいたい注目されることを嫌っていたふしがある。音楽の方に、しかもライブミュージックに傾斜していた意味もなんだかよくわかる。

いつか、勝手に調べて、急にライブハウスを訪れて、吃驚させてやろうと思っていた。「あんなに真実に近いところにいて、まだ生きてる俺たちは凄いじゃん」とか言ってみたかった。

「それは違うよ」と玉井くんに言って欲しかった。

それが、Googleで検索したら、いつもより多い掲載記事。ツイッターの記事で玉井國太郎くんの訃報を知った。2010年の4月のことらしい。おじいさんの火野葦平氏よりも短い命だった。

歴史にランボーという詩人がいてくれて本当に良かったと思う。くだらない文章を書いていて作家、詩人、文学者づらしている連中を吹っ飛ばしてくれるからだ。

彼こそが詩人。

これについては、玉井くんも「それは違うよ」とは言わないだろう。そして安らかに眠ってください。優しい気持ちをいろいろありがとう。

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コメント一欄

4. Posted by snafkin7   2013年08月27日 00:01
5 先輩、コメントありがとうございます。若い日の記憶はいつまでも大事にしたいものです。
3. Posted by 阿世賀   2013年08月26日 23:47
5 そうでしたか。時はそのうちに、含むべくものを含むものですね。

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30数年広告畑で畑を耕しています(笑)コピーライターでありながら、複雑系マーケティングの視野からWebプランニング、戦略シナリオを創発。2008年2月より某Web会社の代表取締役社長に就任。snafkin7としてのTwitterはこちらからどうぞ。Facebookはこちらから。
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