2009年02月28日
『桜ノ雨』の現象学

ミュージシャンとしては、『初音ミク+ニコニコ動画』という新しい場ができていることは確かで、いい曲であれば特に大きな苦労をしなくてもメジャーデビューできるチャンスが増えたというわけだ。
absorb(アブソープ)は自分たちの曲を単に初音ミクに歌わせたのではない。「たまには女の子の声が似合う曲を」とミクを意識して作っているところがヒットにつながっている理由だと思う。absorbが初音ミクを媒介にした時点で自然とマーケティング回路ができたのだと思う。ミクを媒介にすることで客観的な曲作りができたのではないかと思う。
不思議なことに、absorb自身が上手に歌っている『桜ノ雨』と初音ミクが舌たらずに歌っている『桜ノ雨』を聞き比べたがジンとくるのは初音ミクが歌っている雰囲気なのだ。
それぞれの場所へ旅たっても
友達だ 聞くまでもないじゃん
の出だしはもちろん、『僕ら』という主語を初音ミクが発語する時、不思議な感覚におそわれるのだ。
彼女の声はなんなんだろう。彼女は誰なんだろう。短くいえば『主語がなくなった時代のカ細い主語の凝縮』。カフカの小説『断食芸人』が最後ヒモくらいにまで痩せた時の蚊のなくような声に近いものがある。『主語がなくなった時代の最後の主語』みたいなものか。
『ニコニコ動画』上で流れる矢のようなコメント群、あるいは2chの祭りの時のコメント群。これらがモノ凄く元気なのは主語から解放されているからだ。このハイスピードの時代、主語をまとっているとメッセージしにくいのだ。
極端なことを言うと、アメリカのオバマ大統領が『I』や『We』を発語できるのはアメリカの経済はまだ牧歌的なものを残しているからだ。日本の経済下では『私』『私達』はハイスピードの流れの中で成立しない。次から次へと首相が変わり、『私は〜』と語るやいなや吹き飛ばされてしまう勢いだ。民主党もしかりだ。もともと主語を重視しない日本語ではあるが、最近では主語をともなっての意味性のあるメッセージはますます成立しづらくなっている状況にある。
『桜ノ雨』に戻るが、何故この歌が『今』の気分を醸し出しているかというと、ほとんど外に開かれていない、開けない気分だからだ。
いつかまた大きな花弁を咲かせ
僕らはここで逢おう
また、戻ってくることを誓っている。そして、校庭・下駄箱・廊下・屋上・制服・落書き・教室の窓に執着しつつ、外の世界は絶望とまではいわなくても諦めの世界のような雰囲気が漂っている。この歌の中に『希望』という言葉は一度も出てこない。『ゆめ』は出てくるが『ひとひら』なのだ。
『桜ノ雨』とは何のメタファーなのか。
卒業する悲しい心象の雨であるとともに、落ち行くはかない世界そのものともいえる。
世界ははかない雨模様。ただ救いは『僕らは一人じゃない』ことと『僕らみたいに青く青く晴れ渡る空』は見えることだ。しかし積極的に出て行く場所ではない。
出会いのための別れと信じて 手を振り返そう
忘れないで いつかまた大きな花弁を咲かせ
僕らはここで逢おう
外に向いているベクトルと内に向いているベクトル。強さで言うと内に向いているベクトルの方が強い。そしてそれは何も学生達に限ったことではない。社会人だってそういう傾向にある。
そういう時代気分をボーカロイド(初音ミク)が歌う時。なんともいえないもの悲しさが漂う。
ネットからのヒット曲。これからもますます増えるだろう。『桜ノ雨』はまだその序章でしかすぎないと思いまふ。
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1. 桜ノ雨 [ 実況パワフルプロ野球ポータブル3選手パスワード 改造選手 ] 2009年02月28日 06:27
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