2013年04月

2013年04月29日

空飛ぶ広報室の現象学2

SORATOBU
「空飛ぶ広報室」のドラマ評を見ると、やはり自衛隊宣伝ドラマとしてだけとらえ「けしからん」という意見がちらほらある。そういった人たちは、前回書いた「現象学」からもっとも遠い人たちなので、何を言ってもそういう見方しかできず、「ありのまま」を見れないのだと思う。

自分は小学校の時、兄の影響もあったのか、やたら戦闘機、ヘリコプター、戦車のプラモデルを作っていた。日本のものだけでなく、アメリカやヨーロッパのタイプも作りながら、ゼロ戦に惹かれ、小さいものからかなり大きいサイズのものまで作った。ゼロ戦は特攻隊の飛行機としてあまりに有名だが、飛行中に相手を銃撃する精度がいちばん高い戦闘機だったことはあまり知られていない。ゼロ戦だけは、プロペラの回転を計算して、パイロットの視線に一番近いプロペラの真後ろから弾が発射でき、プロペラに当たらないで目標を狙えるのだ。そんなゼロ戦に体当たりさせていたのだから酷いものだ。特攻の日、握り飯と清め酒というのもほとんど嘘だろう。タウリンどころか、覚せい剤を飲まされて突っ込んでいたかもしれないのだ。20歳の時、日本武道館を訪れた帰り、靖国神社が近くにあったので興味本位で訪れてみた。食堂でうどんが旨かったのも印象的だったが、広島の原爆記念館とまた違った、静かな傷跡、無言の悲惨さが伝わってきた。戦争が倫理的にどうかより、重たい悲痛さだけが伝わってきた。

自衛隊ドラマだと批判する人たちにとっては、子供が戦闘機プラモデルを作ることも靖国神社を訪問することも「けしからん」ことなのだろう。しかし子供の頃、戦闘機プラモデルを作っていても、靖国神社を訪問しても右寄りの思想にはまっているわけでもなく、「けしからん」と言っている人よりも実はラジカルな考え方を持っていたりする。このドラマも同様だ。題材は航空自衛隊だが、伝えたいことはラジカルな真実であったりする。ラジカルの本当の意味は、根底的という意味だ。このドラマでは、職業を越え、根底的に大切なことをメッセージしようとしていることは、素直に見れば誰でも気づくはずだ。

ガッキーの相手役の綾野剛は、陸上、写真、音楽の才能も高く、特に音楽ではミニマリズム系を愛し、サントラ制作、作曲にも手を染め多彩だ。演技でも非常に細かい演出を自分でやってのけている。しかも今回はかなりノッている。ドラマの発表会の時、新垣の笑顔の魅力に触れ、「ずっと静止画で見ていられる。100点の笑顔。ひまわりのよう」「お会いして、本当に笑顔が素敵だなと。それひとつで、すべてを凌駕、すべてを解決するほど」と発言したが、第2回目のTV局前の夜のベンチのシーン、第3回目の居酒屋のシーンを見ると、綾野剛の心のはしゃぎ具合が透けて見えるほどノッている。そしてこういう演技は見ている方もとても気持ちいいものだ。

第2回目のラストシーンの綾野の「あの時はけっこう可愛かったのに」とか第3回目のガッキーの泥酔シーンの「空井さんはいい人」みたいなセリフは台本にあったのかどうかも疑わしくなってくる。このコンビは両方が尊敬しノッている。というか、泥酔シーンは、柴田恭兵をはじめ6人とも渾身の演技をしている。このシチュエーションを最高に楽しんでいるように見える。水野美紀ですら西田敏行の演技を超えている(西田敏行とはまた比較としては狭いが・笑)。

このシーンは再生で10回以上見たが、近年のドラマにはない名シーンだ(笑)

原作では、東北大地震のエピソードも入ってリアリティを高めているが、ドラマではどういう展開となるのか、この辺も大変興味深い。

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空飛ぶ広報室の現象学1

空飛ぶ広報室の現象学3

空飛ぶ広報室の現象学4

2013年04月22日

空飛ぶ広報室の現象学

gakky映画「ハナミズキ」で第三舞台の大高洋夫が警官役で出演していて、「生ガッキー」は超絶可愛かったとツイートしていたが、何故か「空飛ぶ広報室」でも、1〜2回目に大高洋夫が報道記者時代の容疑者役で出演している。そんな細かい観察はどうでもいいのだが(笑)有川浩原作のこのドラマ、ものの見方を初歩的に提示していて、後々の展開がもの凄く楽しみだ。

ありのままを見る。

こんな単純なことに、ドイツ系の現象学者は何十年も何十冊も歳月と労力を費やし、そしてそれは、アメリカの複雑系科学の色を帯びながら日本で内部観測の考え方まで流れていったが、「ありのままを見る」ことは実践で花開いてこそで、日本ではおそらく表舞台でテーマになったことも真剣に語られたこともないような気がする。

「報道」と「広報」のルーツは非常にアメリカ的なもの。


ドラマのガッキーは、それをさらに日本的に平板化したスタイルを身につけた記者として初め振る舞う。「報道の正義」というやつだ。こういう「報道の正義」を揶揄した物語は過去あまりにも有名な映画であった。「ローマの休日」。この映画がかつて現象学の例としてひかれたことはないが、実の脚本家がアメリカ人であるにもかかわらず、あえてヨーロッパを舞台にして、アメリカ的なものの見方、ビジネスの仕方を批判しているようなところがある。アン王女に近づけば近づくほど、内部観察すればするほど、記事にできなくなってしまい、特ダネ・スクープの材料をすべてアン王女に渡してしまう。非常にヨーロッパ的な結末だ。恋してしまったが故にというのが一般解釈だが、レッドパージで追われていた実の脚本家がローマに込めた思いは複雑だ。ありのままを見たら「報道」ではなく「物語」になってしまうのだ。

なんのヘンテツもない「ナポリタン」に「物語」がある。


「空飛ぶ広報室」のガッキーは初め、街角で人気の「ナポリタン」に興味もなく外づらの取材をし、惰性で編集をしてしまう。しかし、元パイロットの空井がこの店の主人と会話をし特別の事情があったことを聞きつけると、再編集するために再び店を訪れ、その味の奥にあるストーリーを自分の舌で実感する。ガッキーが初めて「ありのままを見る、聞く、味わう」体験だ。ガッキーの過去の報道記者時代の判断づけが中止される。そして大事なことに開眼する。

「ありのままを見る」とは、色眼鏡をすべて外すこと、中に入り込むこと、話をしながらさらにその思いを聞くこと、そしてもう一度全体を見ること、そういった現象学のエッセンスがこのエピソードにすべて入っている。

現象学などややこしいものを持ち出さなくても、原作者の有川浩は、ものの見方を真剣に問う作家のように思う。「フリーター、家を買う」でも、フリーターにはフリーターなりにいろんな事情があることを見せているし、「阪急電車」では単なる恋人同士、ばぁちゃん、奥さんにもいろんな事情があることを浮き彫りにして、どんな対象でも「ありのまま」を見ようとする。どんな対象でも「ありのまま」見ようとするから自衛隊でも立派な物語が成立する。

歳くった人は無理だろうが(笑)、若くて「報道関係」「広報関係」にいる人は、このドラマを馬鹿にせずに、ちょっと心を許す感覚で見て欲しいと思う。意外と直接的に仕事にいきることが多いように思う。

「ありのまま見る」ことの結末がどうなるか?本当に「ありのままを見る」ことは可能なのか?「ありのままを見る」ことに終わりはあるのか?

このドラマをありのまま見ようと思います。よくある終わり方ですが、これで終わります(笑)

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30数年広告畑で畑を耕しています(笑)コピーライターでありながら、複雑系マーケティングの視野からWebプランニング、戦略シナリオを創発。2008年2月より某Web会社の代表取締役社長に就任。snafkin7としてのTwitterはこちらからどうぞ。Facebookはこちらから。
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