2012年10月
2012年10月28日
ロングバケーション〜FBのつぶやきより
キムタクの月九主演に連動して、夕方再放送されてるので録画している。当時は放送時間帯、街からOLが消えたといわれるほど30%近い視聴率をあげた恋愛ドラマ。以前、早稲田の岡室教授のこのドラマの指摘に影響されて、ネットと恋愛ドラマの衰退をブログに買いたが、改めて見ると、このドラマは、いま見ても面白いというか、ネット洗脳された今でも、ツッコミどころがないことに気づいた。1996年4月、確かにこのドラマがスタートした時に、Yahoo!JAPANがOPENし、インターネット株取引が日本初スタート。確かに、ロングバケーションがネット洗礼を受ける前の最後の恋愛ドラマであることは確かだが、それよりもその当時の時代の停滞感にガッツリはまった作品だったことがわかる。阪神大震災、オウム事件、O157などのショックにより、いろいろ考えさせられている時期。何事もうまくいかない主人公たちは、特にキムタクと山口智子はお互いの生き方にツッコミをいれながらボケたりおどけたりしている。それはネットで熟成される後の激しいツッコミにも耐えれるレベルのものだ。ロングバケーションは、誰もが感情移入できる恋愛ドラマであったから人気だったのではなく、フツーの恋愛を主人公たちが揶揄、壊しにかかっている、解体している、という意味で新鮮だったのではないかと思えるところがある。結婚相手に逃げられた山口智子の恋愛、純愛に近い芸大の後輩とのキムタクの恋愛、それらが成就せず、キムタク-山口智子との新しい共鳴が生じる。ドラマでは、この関係が成立することで物語となっていくが、このドラマはフツーの恋愛が解体していることを示した恋愛ドラマとして象徴的なドラマなのではないかと思う。その後、私たちは携帯電話、インターネットという面白いオモチャを手に入れて、お茶を濁すような楽しい毎日を過ごせるようになった。そして時々、あらゆるものが壊れていることを思い出しては、刹那的に寂しくなるが、そんなところで立ち止まっていては前を向けないということで、より楽しいスマートフォンにまで手を出してしまった(笑)しかし、やりきれなさはロングバケーションの頃とあまり変わっていないことも確かだ。感情的なロングバケーションはまだまだ終わっていない。2012年の今もこのドラマを見て、面白いと思えるのはそのためなのかなと思う。
2012年10月22日
ジョン・カーペンターが感じているもの

一つは1960年代の精神病棟という設定。現在も精神病棟として機能している病院の廃棟で撮影していて、そのリアル感も尋常じゃないが、1960年代というのは、ある意味、ゆるい管理体制であっても違和感がなく、というか、現在(今)がいかにキツイ管理体制であるかを逆に照射してみせている。精度のいい監視カメラもなく、高感度なセンサーもなく、人の自由を制限するのは鍵とベルトのみ。ここに「逃走」という可能性が生じ、管理されながらも完全に管理されていない隙間風を感じ、少しの希望が残されている。現在でもたまに刑務所から脱走したり、ヨガの技を使って鉄格子から脱出する事件が報道されているが、その後、街中いたるところにある防犯カメラや緻密な捜索網によって、完全脱獄はありえないことになっている。いつのまにか、街の監視度は高まっていて、こういうものも無意識のうちに、人に息づまり感を感じさせている要因なのかもしれない。
もう一つはシナリオへのこだわり。この作品は、原作が用意されていたが、ブロデューサーやらジョン・カーペンターによって執拗に手直しされ、または俳優のアイデアによって、映画のシナリオに定着するようにかなりカタチを変えている。それはすべて見る側にどう刻まれるか、印象深くなるか、楽しんでもらえるかを延々考えてのことだ。この作品のようなサイコホラーではとても重要な要素で、奇をてらった演出はなく、古典的ともみえる演出に見る方はまんまとハラハラドキドキさせられ、ラストシーンなどは度肝を抜かれる(笑)予算が限られていたと作品解説に書いてあるが、お金を使わずとも頭を使ってアイデアを集結すれば、深い所での心理を動かす作品となることを証明してみせている。
あと、特典映像を見ていてわかったことだが、今注目の女優・アンバー・ハードは大の日本好きで、日本語を勉強していて、そこそこ喋れるレベルであることと、監督のジョン・カーペンターは日本のゴジラ、ラドン、キングキドラを愛し、AKB48にぞっこんであること。AKB48のパーソナルドキュメンタリーを作りたいと語っているほどだから、かなりのものだ。想像するに、映画の作風と同じく、AKB48のアナログ感に何かを感じているのだろうと思う。また、ジャンルは違ってもコンセプトを大事にする、サプライズでもてなす、予定調和を嫌う秋元康の姿勢とつながるものがあるのかもしれない。
ジョン・カーペンターの作品は、「ハロウィン」シリーズ、「遊星からの物体X」くらいしか見ていないから、もちろんファンとも言えないが、この「THE WARD 日本題:ザ・ウォード 監禁病棟」を見て、表現者が生きるためにしなければならないことを再確認できたような気になった。表現者は表現したいことを公にする前にも、はっきり示し、多くの意見を取り入れながら、どう刺さるかの角度をよりいい角度に定めること。多くの力を取り入れながら自分らしくエクスプレッションすること。「THE WARD」の女優・男優インタビューでは、みんなジョン・カーペンターを絶賛していた。自分の小さなアイデアをも取り入れてくれた、監督が何を考えているかがすぐわかって、だったらこうしたら、その考えがもっと生きてくるのではと言いやすかった等々……。そして映画監督(表現者)にありがちな気難しさは一切なかったと……。
時代はデジタルになっても、大事にしなければならないことは何も変わっていない。パン生地を手作りでこねるような愛情と、きもちが共鳴するコミュニケーション。デジタルはあくまで手段であって、その規模、その便利さに溺れてはならないこと。ホラー映画でこんなことを教えられるなんて、思ってもみなかった(笑)
2012年10月17日
村上春樹について FBのつぶやきより
最近はブログに書いていた内容をFacebookに書くことが多く、FBでは「友達」しか読めないようにしているのである意味、クローズ。時々、こうやって公開できるものは公開しましょうかね(・∀・)
【村上春樹】ノーベル賞を逃した村上春樹だが、その理由は、芥川賞を逃した時とよく似ているような気がします。【ノルウェイの森】の原型である【蛍】を読めば、ただの洋かぶれの作家ではなく、源氏物語の宇治十帖にもつながる文学性を持っていることがわかりますが、それが【蛍】に象徴されるように、淡くて現代(現在)を生きていない印象がするんですね。次にノーベル文学賞をとるとしたら村上春樹だと言っていた吉本隆明も「今を生きていたら…」と条件付きでした。安保のことでもサリン事件のことでも原発のことでも向き合ってるようで向き合っていない、エルサレム賞の時のスピーチの「壁と卵」の比喩がそれを表していますが、核心にふれないがための比喩が多いですね。小説の中でもそれがまだろっこしいと感じる人は多い、エロスも死んでますし。一方、ノーベル賞を受賞した莫言の方は、中国当局の検閲を避けるために比喩やメタファーを使い間接表現を駆使し、中国でタブーとされる政治的な問題に向き合ってきたという違いがある。「紅いコーリャン 紅高粱」なんかはやはり強いインパクトがありましたね。消極的なメタファーか、積極的なメタファーか、そしてそういうメタファーを使って、アジア的な問題をどれだけえぐり出しているか、それが今回の西欧人から見ての、興味だったと思います。ノーベル賞事務局長は村上春樹の件は「何も言えない」と語ってるわりにははっきり言ってるような気がするんですね(笑)「莫言氏は尊厳と生存のためにもがく20世紀中国の民衆の姿をドキュメンタリータッチで描き、さらに少年時代に親しんだ民話を融合させた。西欧かぶれしていないユニークな作家だ」 要は村上春樹の方は、芥川賞選考の時に大江健三郎らが評した「翻訳小説の読みすぎ」と、同じ評価を受けてしまったということ。日本人ならビートルズの曲名を題名にするなっといったところでしょうか(笑)
【村上春樹】ノーベル賞を逃した村上春樹だが、その理由は、芥川賞を逃した時とよく似ているような気がします。【ノルウェイの森】の原型である【蛍】を読めば、ただの洋かぶれの作家ではなく、源氏物語の宇治十帖にもつながる文学性を持っていることがわかりますが、それが【蛍】に象徴されるように、淡くて現代(現在)を生きていない印象がするんですね。次にノーベル文学賞をとるとしたら村上春樹だと言っていた吉本隆明も「今を生きていたら…」と条件付きでした。安保のことでもサリン事件のことでも原発のことでも向き合ってるようで向き合っていない、エルサレム賞の時のスピーチの「壁と卵」の比喩がそれを表していますが、核心にふれないがための比喩が多いですね。小説の中でもそれがまだろっこしいと感じる人は多い、エロスも死んでますし。一方、ノーベル賞を受賞した莫言の方は、中国当局の検閲を避けるために比喩やメタファーを使い間接表現を駆使し、中国でタブーとされる政治的な問題に向き合ってきたという違いがある。「紅いコーリャン 紅高粱」なんかはやはり強いインパクトがありましたね。消極的なメタファーか、積極的なメタファーか、そしてそういうメタファーを使って、アジア的な問題をどれだけえぐり出しているか、それが今回の西欧人から見ての、興味だったと思います。ノーベル賞事務局長は村上春樹の件は「何も言えない」と語ってるわりにははっきり言ってるような気がするんですね(笑)「莫言氏は尊厳と生存のためにもがく20世紀中国の民衆の姿をドキュメンタリータッチで描き、さらに少年時代に親しんだ民話を融合させた。西欧かぶれしていないユニークな作家だ」 要は村上春樹の方は、芥川賞選考の時に大江健三郎らが評した「翻訳小説の読みすぎ」と、同じ評価を受けてしまったということ。日本人ならビートルズの曲名を題名にするなっといったところでしょうか(笑)