2010年08月

2010年08月30日

CSRとしての「24時間テレビ」

今年はチャリティマラソンが「はるな愛」ということもあって、24時間テレビをよく見ていた方だった。「はるな愛」は大阪・心斎橋のニューハーフパブ・冗談酒場で働いていた時、「春菜愛」という名前。人に連れられて冗談酒場で初めて出会った時、性別なんてどうでもいいや、できるだけ長くこの人を見ていたい、という自分にとってまったく新しい感情(衝動)が生じ(笑) その後何回もお店に通うことになる(笑)それまで、ニューハーフなんて気持ち悪いとか思ってた自分が、性別なんてどうでもいいや、と捨てっぱちな気持ちになるのは、ある意味痛快で、人間なんてどこでどう価値観が変わるかわからないもんだなぁと、非常に不安定に揺れる自分の気持ちを楽しんでもいた。

それからだいぶ経って、AirあややのネタでよくTVで出るようになって、声をつぶしている「はるな愛」を見て、上京してから苦労したんだろうなと思った。声をつぶした結果、Airネタができブレイクしたというのも皮肉なものだが、彼女(彼)は持ち前の明るさと笑いを計算できる賢明さで、あれよあれよと一線の芸人となり、ニューハーフ世界一にも輝き、今回のチャリティマラソンランナーにも抜擢された。

彼女が24時間テレビで走る意味はもの凄く大きい。

なぜなら、24時間テレビを娘二人と見ていて、ひととおりを話さなければならない事態になったからだ(笑)

「愛ちゃんって可愛いね」と娘

「もとは男だったんだけどね」と私

「えっ、愛ちゃんって男なの?スカートはいてるよ」

「今は女だからね」

「男から、女になれるの?」

もうそこから、娘二人から質問攻撃、6歳と4歳の娘に性同一性障害のことをできるだけわかりやすく語ることになる。わかってないと思うが、そういう不思議なことが世の中にはあるんだくらいは理解したのではないかと…すると夕食の時

「ママ、愛ちゃんってオチンチン切ったんだって」と娘

「あなたは娘に何を教えてるんですか!!」と手ひどく怒られた。

二女の方は私の困ってる顔を見て、壊れたように笑いころげていた。

「はるな愛」が24時間テレビで走ることによって、見ている家庭ではいろんな会話がされているのだと思う。うちの奥さんなんかは

「愛ちゃんが走ることで、ニューハーフになりたい人が増えるんじゃないの?」

「それはそれでいいんじゃないの」といいかげんに応えると

「もと、好きだった人だものねぇ」と皮肉を言われた。

今回の「はるな愛」ランナーは、障害をかかえた人の走りでもあり、盲目の少女のトライアスロンと並んでいろんな意味を内包しているのだと思う。

そして、これだけ24時間テレビを子供と一緒に見ていたのは初めてだが、浅田真央と滑ることを夢見る障害を持った少女にそういう機会を叶えていたコーナーや前田敦子に友達になってネという難病の少女のコーナーは、娘にたくさんの情報を与えてあげねばならず、こういうことをいろいろ話す機会を持ったこの番組は、いい番組なのではないかと、あらためて思った。

谷村新司が最後の方で、この番組を見て「ずっと泣いていました」というのは演出を超えて、素直な意見かと思う。

30年近く続いているこの番組。いいCSR番組となっているではないか。

一方、偽善番組という批判も多いことは確かだ。スポンサーから広告費が出ていること、出演者がノーギャラではないこと。しかし、メディア・企業が持続・継続的に行ってきたことの中で、いろんな価値観を提示し、一部ではあるが、救われる人達がいる機会をつくっているのはいいことではないかと甘いが思ってしまう。

この番組を単なる偽善批判、マスコミ批判の流れの中で批判してしまうのは惜しいことだと思う。

もうひとつこの番組には、24時間(正確には違うが)通しでやっていくとそのタレントなり出演者の素の部分や力量がわかって面白い面がある。

タモリが司会していた頃に、あのタモリでも24時間、辛そうなのを見て、吉本隆明・中上健次・三上治が主催となって、品川の寺田倉庫を24時間借り切って、日本中から知のエキスパートを集めて連続講演が催されたことがある。その時、参加して思ったのは、日常、仕事で書いたり、しゃべったり、読んだり、聞いたりしているのは短距離走のようなもので、こういう長距離走で、複数の人間と何かをするというのは貴重だなと…。若かった私は日本で知の革命が起きてしまうと、会社を休んで参加したが(笑)あいにく何もおこらなかった。しかし、1日でも覚醒しながらいろんな意見を交換すると、普段使わない脳のある部分がちょっと気持ちよかったりして、これって何なんだろうと考えたりしていた。

24時間テレビは見ている側のものでもあるけれど、出ている側の意識の中でもいろいろ起こっていると思う。眠り姫で有名なAKB48の前田敦子が寝不足気味で、いろんな社会なことを考えること。それはギャラ云々だけの問題ではないだろう。このイベントによって、CSR的な視点が多く芽ばえたとしたら、やはりいいことなんだと思う。

ダーツ的な旅でTOKIOや米倉涼子がいきなり、知らぬ街を訪れるのも夢があっていい。と、どこまで書いても最終的に肯定してしまうので、この辺で終わります(笑)

 

 



2010年08月25日

南京桃が実りました。

momo


言い伝えどおり、3年目にして桃が実りました。はたして、これは食べられるのかな…ちなみに個数は2でふ。そろそろ鳥が狙いはじめてるかもん。

追記
若い実は毒があるというので、かなり待って娘と二人で食べましたが、本当に美味しい白桃の味がしましたよ。なんとか次も実って欲しいと願っています。

2010年08月24日

メールのない世界、映画「ハナミズキ」

新垣結衣主演の「ハナミズキ」をレイトショーで見た。マイケータイの電源を切った後、約2時間、本当にケータイもメールも登場しないラブストーリーの世界にひたっていた。

ケータイもメールもない時代、待ち合わせも気持ちもすれ違いが良くあったよなぁ…と映画を見ながら自分の記憶も懐かしんでいた。

パルコのどっち、階段の上の方とか、ハチ公の上とか(それはないか・笑) 場所の念押し、時間の念押しが会話の最後には必ずあった。駅のアナウンスで呼ばれたこともあったし、伝言板を利用したことがあった。ケータイが登場してから、そんな会話もシーンもなくなった。

ラブストーリーにはすれ違いはツキモノだ。

ナスターシャキンスキー主演の「テス」なんかでは過去の告白手紙を部屋にソッと入れておくが、絨毯の下に入り込んでいて、取り返しのつかないすれ違いがおこる。古いアニメの「キャンディ・キャンディ」ではキャンディとテリーがいつも近くにいるがすれ違ってしまう。

「ハナミズキ」ではカナダの漁港のショップで運命のいたずらのようなすれ違いがおこるが、これが二人を再び結びつけるきっかけにもなる。

映画を見ていて、メールやケータイのなかった頃の方がロマンチックな恋愛ができたのかなぁと思い始めたが、いやいや、それは単に不便だった、メールやケータイがあった方が恋愛としては安心できる、となんだかいろいろ気持ちで揺れ始めた(笑)よく考えるとロミオとジュリエットも最後の方はすれ違いで二人とも死んでしまうわけで…(鴻上尚史の脚本ですれ違いなく生き残ったロミオとジュリエットが結婚し、延々夫婦喧嘩をする芝居があった・笑)

「ハナミズキ」の主人公達がもしメールでやりとりしていたらと…いらぬ想像をしてしまった。長いメールのやりとりを続ければ、それはそれなりに疲れてしまうのではないかと…。

「ハナミズキ」の後半の時代設定はケータイもメールもある時代。生田斗真がケータイを持っていることがわかる会話が一度だけあるが、彼はケータイには出ず、新垣結衣と密会している。ケータイそのものは映画には出現しない。パソコンはアメリカの出版社の勤め先でvaioが出てくる。

おそらく、この映画の作り手は、ケータイやメールのないラブストーリー(遠距離恋愛)を描きたかったのだと思う。そしておそらくそれは成功している。その分、会話や言葉に少し重みが出ているから…。

「ガンバレ」という手書きの文字も、「ありがとう」という手書きの文字も

「おかえり」「ただいま」を繰り返し言い合う会話も妙にあったかい

自分自身はケータイが出現してから、小説やドラマ、映画のストーリーは格段につくりやすくなっていると勝手に思っていたが、それをあえて外すことでこんなに余韻のある映画ができるのだなと…感心した。

コミュニケーションに“間”があると、想像力がふくらむのかもしれない。

その想像力はいい方に出る場合もあるし、悪い方に出る場合もあるが…

もう誰もケータイやメールのない世界に戻れないと思うが、映画の2時間くらいなら我慢でき、この映画はそういう世界を楽しむことができる。

映画館の帰りのエレベーターでは、ボロボロ泣いてる女性達の間に挟まれて、私は非常に表情がつくりにくかった。北海道の大自然、カナダの壮大な景色、新垣結衣の成長した演技を見られただけでも私は満足だった。

なるべくストーリーに触れないようにしましたが、失礼がありましたらすみませんです。



tora7
snafkin7
30数年広告畑で畑を耕しています(笑)コピーライターでありながら、複雑系マーケティングの視野からWebプランニング、戦略シナリオを創発。2008年2月より某Web会社の代表取締役社長に就任。snafkin7としてのTwitterはこちらからどうぞ。Facebookはこちらから。
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